昭和42年8月8日、父親の赴任先の北海道千歳市で産声をあげる(「九州男児」と公言しながら、実は「道産子」ナノダ!)。
ボクが生まれた日、父親は過酷な徹夜の行軍演習中。ボクが生まれたということで、行軍演習を堂々と途中でリタイアすることを許された父親は、「親孝行な息子だ!」と大声で叫んだそうだが、それが勘違いであったことは、後々嫌というほど知らされることになる・・・。
6歳の春、満を持して泗水幼稚園に入園。
入園当初は、自転車の後ろに乗せ、毎日送り迎えをしてくれていた母親であったが、途中で面倒くさくなったのか、ボクが拒否したのかは定かではないが、近くに住んでいた友達と2人で歩いて通学することになった。このことが、今でも親戚が集まると酒の肴とされることになる、ある大事件を引き起こすきっかけとなるのだが、さすがに、この事件に許ついては我が家の名誉のためにもここで書くことは許していただきたい(ホントは書きたいが書けない事件その1)。
泗水小学校で6年間を過ごす。
山でカブトムシを捕ったり、川で魚を釣ったりとごく普通の田舎の少年のままであればよかったのであるが、5年生になったころ、周りの友達が遊んでいる遊びに全く興味を持てなくなってしまう。こんなひねくれたボクが、親友と2人で夢中になったことがあるのだが、結果的に父親に半殺しの目に遭ったようなことなので、このことについても、ここで書くことは許していただきたい(ホントは書きたいが書けない事件その2)。
6年生になり、少し更生したボクは、クラス発表会の出し物であった「ゴキブリくんの大冒険」の主役の1人(「ゴキちゃん」と「ブリちゃん」の「ブリちゃん」の方)に大抜擢され、初舞台を踏むことになる。このときに刷り込まれた感動が後々のボクの人生を大きく変えていくことになるのだが、当時のボクはまだ知る由もない。
泗水中学校で3年間を過ごす。
得手不得手の問題に過ぎないのであるが、学校のお勉強はよくできた方だった。でも、ボクがお勉強に熱中したのは簡単な理由だった。それは、お勉強ができるというだけで、親や学校の先生がボクを見る目が変わったことが単純に嬉しかったのだ。母親が、「勉強頑張っとるね?」とか言いながら、夜食に「鍋焼きうどん」を作ってきてくれたときなどは、正直、「母親が宇宙人に乗っ取られた!」と思ったほどだ。
こうしてボクは、俗に言う「優等生」として、中学の3年間を過ごしたが、そのときの鬱憤が後々吹き出すことになろうとは、これまた当時のボクはまだ知る由もない。
熊本高校で3年間を過ごす。
ゲタ箱前での出逢いやら校門前での待ち合わせやらを、散々妄想して入学したボクだったが、いきなり「男子クラス」(通称「男クラ」)に放り込まれ、一瞬にして青春が終わった感覚を味わうことになった。
2年生にあがるとき、文系・理系の選択に合わせてクラス替えがあるのだが、ボクは、希望用紙に大きく「文系(男女クラス限定)希望」と書き、見事に男女クラスに滑り込むことに成功した。息を吹き返したボクは、文化祭では、処女作となる「じゃじゃ馬ならし」の芝居の脚本と演出を担当。当然のことながら、自分の好きな女の子を主役に抜擢し、放課後はもちろん必要もないのに朝練まで繰り返し、青春を謳歌した。成果は言うまでもない。
3年生。受験校である母校での最後の楽しみといえば、5月に行われる体育祭でクラスごとに山車を引きながら披露するアトラクションのみ。ボクは、アトラクションの脚本と演出を担当し、高校最後の花火を打ち上げようとしていた。が、その矢先、バイクで壁に激突し即入院するはめに。毎日ひっきりなしに訪れるボクのクラスメートを見て看護師さん(当時は看護婦さん)が、「あんた人気あっとね」と笑顔で言ってくれたが、真実は、ボクが書く脚本を毎日取りに来ていただけのことだった。病院のベッドの上で、締切りに追われる作家の気持ちを嫌というほど味わうことになったのである。トホホ。
1か月の入院の後、学校に復帰したものの、受験一色に染まったクラスの雰囲気についていけないまま、ボクの高校時代は幕を閉じた。
東京の河合塾で1年間を過ごす(第2の浪人)。
練馬区にあった河合塾の寮「青雲寮」が、ボクの東京生活のスタート地点であった。全国からいろんな奴らが集まって来ていた。ボクの仕事は、朝みんなを起こすことだった。ボクが早起きだからではない。夜寝ないからだ。朝まで勉強してみんなを起こし、一緒に朝ご飯を食べて、「いってらっしゃい」と新妻のように、みんなを予備校に送りだしてから寝る毎日。
「予備校には行かないのか?」って。はい。行きません。
寮生を予備校に送り出すことは、本来、寮長の仕事である。その仕事を奪ったボクを寮長が許すはずはなく、何度となく寮長部屋に呼び出されては、説教されたが、今となっては、あんなに頭から湯気を出してまで叱ってくれた寮長を懐かしく感じるのは何故だろう。でも、名前も覚えてないんだな、これが。
早稲田大学で4年間を過ごす。
予備校にすら真面目に通わなかったボクが、大学に真面目に通う道理はなく、無為な日々を送っていた。
そんなとき、ボクはまた演劇に出逢ってしまったのだ。
知り合いから誘われて観に行ったある劇団の小劇場。バブルの時代の落とし子みたいに小劇場ブームが到来していた。ボクは誘われるまま、その劇団の門を叩いた。
そこにはボクの知らない世界があった。ボクなんかより滅茶苦茶頭がよいのに、滅茶苦茶な言動を繰り返す劇団の先輩たち。ボクが4年生になっても、みんなまだ学生だった。ボクが当たり前のように、大学を4年で卒業しようとすると、「かせぢまくん!4という数字は古来から、縁起が悪い数字だ。悪いことは言わないから5か7にしなさい。」と真面目な顔でボクを諭すような人たちだった。
でも、ボクは先輩たちからいろんなことを教えられた。自分がちっぽけだってことや、ちっぽけな自分でも誰かに伝えられる「コトバ」を持っていることを・・・。
同級生のクラスメートが、スーツを着て就職活動をしているときも、ボクは演劇を続けていた。クラスで就職しなかったのはボクひとりだった。スーツなんて持ってなかったしね、実際。
その後、自分で劇団を主宰し、公演活動を続けていたが、ある瞬間ふっと感じてしまった。
「ここはボクのいる場所じゃない。」
ボクは演劇を辞めた。23歳の夏の夜だった。
弁護士になり10年が経過した。あっという間の10年だった。
「弁護士の仕事って何だろう?」
この問いを自分に問い続けた10年だったような気がする。
弁護士の仕事は、単に「法的サービスを提供する」ことではない。
弁護士の仕事は、依頼者の「笑顔を取り戻すこと」である。そう信じている。
ボクのコトバは、伝わっているのだろうか?
どうしたら、このコトバをうまく伝えられるのだろうか?
これからの10年は、この問いを自分に問いかけることになるだろう。
その答えを探すために、ボクは、山鹿という新天地で弁護士の第2ラウンドを送ることを決意した。
テーマは、「絆」。やりたいことは山ほどある。
ボクと関わった方の笑顔を一人でも多く取り戻せるよう、これからも考え続けていきたいと思う。
23歳のとき感じた「霧の向こう側」に自分は辿り着いているのだろうか?
でも、昔から解っていたんだ。
自分で決めることではない問いであることを・・・。
世阿弥は言った。
「花は観手に咲く」
このコトバの意味をホントに実感できるまで弁護士を続けようと思っている。